京都、大阪? どっちやねん(その6)

行きつけの寺・・そう言われてみれば、大阪の代名詞・太閤秀吉が登場する時代モノ・・例えばNTK大河ドラマなどでは、聚楽第やら、伏見城やらを行ったり来たりする秀吉を描くことが多い。特に秀吉が地歩を固めて以後、晩年にかけては、京と大坂を頻繁。いったい、いずれが京でいずれが大坂の場面か・・ドラマを見る、こっちの頭が混乱する。

このようなドラマで見る限り、秀吉の意識の中に、物理距離的な意味での「京と大坂の境目」は、なかったのではないか? そう思える・・秀吉の意識の奥底にあったのは、明確に違う京と大坂の「町の機能」・・その使い分け方を、いかに「機能的に使いこなすべきか」それだけだった?

でなければ、その時代、京阪特急(このペンションの近く、大阪城に近い天満橋から、京都・七条まではタッタの45分ほど)があったわけでもないのに、距離的バリアーをまったく感じさせない、行ったり来たりが、こんなにも多くドラマに登場することはない。

ニッポンのお城を知る上で、外国人にも親切な優れたホームページ「Oshiro meguri-fan(観光日本の城)」を検索してみると・・こんなことが紹介されている。

⇒1496年、大坂に初めにお城を築いたのは、浄土真宗本願寺派中興の祖といわれる蓮如です。そのころ浄土真宗には蓮如の功績で多くの門徒が集まり、一向宗として名高い結束集団に成長していました。

一揆を繰り返した一向宗戦国大名と肩を並べるほどの力を持ち、大坂は寺内町として隆盛を誇っていました。当時の石山本願寺は堀、石垣、土塁、塀をめぐらせ、城そのものだったようです。蓮如の死からおよそ70年後の1570年、蓮如の曾孫にあたる顕如は、一向宗に圧迫を与えるようになっていた織田信長と交戦状態に入ります。それは11年におよぶ長い戦に発展しました。

⇒1580年、ついに信長との和睦に応じた顕如一向宗徒はこの地を去りました。主な建物が全焼したため石山本願寺が現在の大阪城のどの範囲かはわかっていませんが、本丸と内堀と極楽橋は当時からあったともいわれています。梅園の南に「蓮如上人袈裟がけの松」と伝えられる松の切り株があります。

大陸(現在の中国)や半島(現在の韓国)との往来・・瀬戸内に開いた大阪湾・・良港を内包する都市・大坂は古来、物流の中心・・すなわち富の入口・・秀吉の師匠の織田信長以前、この大坂(大阪)は「寺」そのもので、それは「石山本願寺」だった。しかしそれは「お城」そのもであった・・あの、歴代のNHK大河ドラマの数々も、徹底的に破壊された石山本願寺の“ドラマ”は、まったく描き切れていない。日本史の謎、といってもいいような話・・

今日の概念では京都と大阪は「二つの都市」。しかし、歴史的に見ると京と大坂は、入口と奥の切っても切れない一卵性双生児・・そのことがよく分かる・・つまり、港町で富の入口・集積地にあたった大阪は、早くから歴史的に「行きつけの寺」といった、牧歌的「お寺」の存在を許されなかった・・「けっこう悲しい町」・・

京都は、その奥に控え、少々“みやび”に、かつ時代・時代の権力者が「行きつけの寺」を意図的に保全してきた町・・まったくうまく機能させてきた・・京都在住、女子漫画家との「京都歩き」・・いったいいつまで・・つづく


京都・大阪の旅 http://www11.ocn.ne.jp/~pen-lee/   

The LEE Osaka downtown(小さな大阪の宿・大阪の民宿です)http://pension-lee.net/