わんぱくオヤジのサンタクロース

昭和57年(1982年)、27歳の時に始めたペンションは琵琶湖の西岸、比良山麓にあった。工事業者とのトラブルや借金返済の不安が山盛りで、7月のオープン時にはほとんど思考能力を失い、金縛り状態が続いた。それを助けてくれたのは多くの友人と、同世代の客人たちだった。

その客人の中に、当時カリモク家具に勤めていたYさんがいた。はじめてのバーべキューを計画した午後、空模様が怪しい。ウィンドサーフィン仲間といち早くチェックインしていたYさんも、ボクと同じように空を見上げ、腕組みしてくれた。その時が初めての出会いだった。「マスター(当時、ペンション経営者はオーナーとかマスターとか、そんな呼称で呼ばれることが多かった)、これやったら何とかなるで、ボクが保証したる」。

Yさんの言葉に思考能力ゼロのボクは救いを求めた。その日の夕食はバーべキューと決定! キッチン担当の“無給アルバイト”らにも、その方針を伝え、はじめてのバーべキューは、Yさんのおかげで楽しく終えることが出来た。そんなことがあってから、Yさんはちょくちょく泊まってくれたし、仲間も紹介してくれた。

この年の12月には、そんなYさんたちグループのクリスマスパーティーもあった。Yさんは場を盛り上げるのが上手で、それでいて嫌みがない好人物、サンタクロース役で大活躍だった。同年代、若造が経営するペンションには力強い助っ人だった。

ちゃんとした距離感をお互いにわきまえつつも、Yさんとはいい友人になった。その後、Yさんは会社の転勤で日本をあっちこっち周り、会社勤めの役回りも無事に終え、故郷である岡山県高梁市にUターンした。ボクが故郷の大阪で、この「たぶん日本一小さな宿」を開業した頃だった。

先祖代々の田んぼを耕し、3人の子供にも恵まれたYさんは、地域の子どもたちのためにとNPO活動で、「どろんこ塾」という活動を始めた。自宅からほど近い小高い丘の一角で汗まみれ泥まみれらしかった。「一度見に来てよ」ということで、高梁市の自宅におじゃましたら、その姿は万年サンタクロースのようで、さすがYさん! と感嘆した。

この年齢になるとこの時期、喪中ハガキがいっぱい届く。今年は特に多い。その中にYさん宅からのハガキを見届けた。まさかと思った。しかし、その喪中ハガキの中にYさん、そのものズバリの名前があった。恐る恐るご自宅に電話し奥さまに聞いた。「10月の秋祭りで神輿を担いだ翌日、脳出血で急逝しました」と。

悲しかったが、なんだかYさんらしいなと思った。

師走。万年サンタクロースのようだったYさんのことを、強烈に思い出す。