黒部の太陽 もう一度!

中学校の頃、講堂で見た「黒部の太陽」はカッコよかった。石原裕次郎三船敏郎の絶対の存在感と演技がカッコよかったこともあるが、日本列島のちょうど真ん中あたりを南北に走る糸魚川・静岡構造線を抜け、人跡未踏の黒部渓谷の奥深く黒四ダムをつくる。その経営的な決断と巨大ダムをつくること「そのもの」に対する責任感が何よりカッコよかった。いうなれば「決断と責任感」がモチーフになった日本映画の秀作だった。

それと対比的なのは原発。人のほっぺたを札束でひっぱたくような行為。その連続行為でつくられてきた原発の歴史には、当然のことながら、特定の人や経営者に「決断と責任感」はない。あるのは「札束」、ただそれだけに見える。

人の顔の気高さは、切迫している「何か」を乗り越えた時々に造作される「精神の造形」だと思う。その「精神の造形」は、特に公益に資する障壁を乗り越えたとき、凛とした輝きを増し、気高さを増幅させる。黒部の太陽に出てきた石原裕次郎三船敏郎も、そのようなテーマ背景の中、存在感が輝いた。

技術者として、経営者として、語るべき事実を語れない原発関係者に気高さを求めるのは酷としても、その顔という顔に「札束」のニオイがして、慇懃な人相に「造形」されていることに、改めて驚嘆する。「札束の行為」だけが続くと、これほどまでに人の顔は、貧相に慇懃になってしまうものなのか。

技術や経営の行方が「人の幸せ」になく、「札束の嵩」だけに向かった時、人の表情から愛が消え去る。そんなことばかりが頭に浮かぶ日常が続く。

その人相、この梅雨空よりもうっとおしく。黒部の太陽 もう一度!