国見ユースホステル初代ペアレント椎木さん

大分空港がある国東半島は石仏の里。拳骨(ゲンコツ)のように丸い。その半島のど真ん中、一番高いところにに両子山がある。標高720mもあるが、「そびえる」というような居丈高さはない。逆に、その稜線から延びる尾根や谷沿いに数えきれない寺院があり、この様は遠い昔から「六郷満山(ろくごうまんざん)」という「親しみ」で表現されている。それら寺院の連なりは周防灘と伊予灘の海に向かって伸び、どこまでも優しい。

この国東半島のなかほどに国見ユースホステルがある。ここの初代ペアレントは椎木さんだった。ボクが初めて訪れたのは昭和47年3月。驚くことに、その当時すでに、このバラエティ豊かな国東の「六郷満山」を解釈し、それぞれの山歩きルート(当時は国道整備も不十分で、ヒッチハイクで「山歩き」。「観光」と言うには程遠い趣があった)を見事に「コース地図」に整え、僕たちに開陳してくださった。

フレッシュコース、ゴールデンコース、パールコース等々、国見ユースホステルに泊まり、一日かけてそれぞれのコースを踏査した。いま思えば「体験型観光」の最先端だった。なにせ、それぞれの寺院が秘蔵の仏像を「なでなで」させてくれたし、「説教や法話」を、茶菓付き(時には酒付き)無料で聞かせてくれた。

さらにさらに、当時すでに一般的には聞くことが不可能だった「高木正弦」さんという琵琶法師の「生」も、この国見ユースホステルで、「NHK特集より何年も早く」聞かせていただいた。椎木さんの着眼は、それほどすごかった。

椎木さんには、「さくら」ちゃんという当時、幼稚園児くらいの娘さんがいた。可愛がっておられた。その椎木さんはしばらくして亡くなった。

その国見ユースホステルは、いまも当時そのままにある。ただし、施設運営は指定管理者制度とかなんとか知らないが、まったく「魂」が無くなっている。悲しいことに、その時代の各コースのアルバムは管理も行き届かず、歯抜けになってカビ菌のニオイと共に片隅に追いやられている。コンクリートの施設よりも、椎木さんの、あのパッションが求められているこの時代に。

椎木さんは怖かった。17才のボクは、いたずらが過ぎて拳骨をもらったことがある。いま、あのカビ臭い片隅に追いやられている各コースのアルバムを見たら、国東半島のゲンコツよりも強いナックルパートで、ボク達にパンチを食らわせるに違いない。

カビのニオイにそんなことを感じ、もう50歳前になっているはずの「さくら」ちゃんのことが頭によぎった。