少々の賢さと立派なアホ

屁理屈をこね、何を言ってるのかさっぱりわからない記者会見や発表がこう毎日、延々とテレビに映ると「賢さのズルさ」という顔つきに敏感に反応する。行動や発言にこそ、その人の相・・人相が造成される。

他者の苦痛や苦難はなかなか他人には理解できない。私のような凡人にはなおさらだ。だから政(まつりごと)はある。政治は庶民の痛みに敏感であらねばならない。そうでなければ政とはいえず、政治は単なる欲望ゲームと化す。

毎日毎日、いやというほど映像化されているこの鈍感な発言と顔は、いったい何だろう? 今年の選抜高校野球の選手宣誓の記憶がよみがえる。高校3年生になったばかりの17才の野球選手には一言一句、誠実な勇気を感じた。言葉の一つひとつに「痛みに反応する新鮮」が見て取れた。言葉が生きていた。元気をもらった。

これと同列には語れないにしても、この度の為政者の言葉には一片の勇気も感じられず「誠実」にいたっては、はるか大宇宙の彼方。途方もなく遠い。言葉が壊死している。だから見聞きするこっちは、辛苦がカラダに癒着して身もだえし、苦しくて痛くて仕方ない。悲しい。

かしこい人間になりたいと思うことは、ままある。しかしいまほど、立派なアホでよかったと己のアホに神妙に納得する日々がある。アホの顔も人相に出るのだろうが・・