桜と花見

今週のお題「桜」
花見にはれっきとした三要素がある。これを発見し、定義付けたのは国際日本文化研究センター教授にして、ものがたり観光行動学会・会長の白幡洋三郎先生。その内容は先生の著書「花見と桜」に詳しい。僭越ながら、ごくごく簡単に説明させていただく。

ニッポンの花見は「群桜、群集、飲食」の三要素がそろった時、はじめて花見という。この三要素がそろっていなければ花見とは言わない。例えば、とても有名な大阪・造幣局の桜は群桜、群集はそろっているがここでは「飲食」禁止。で、そぞろ歩くのみ。故に、絶対に花見とは言わず「造幣局の通り抜け」という。

白幡先生が世界各国・各地の桜の名所を研究した結果は群桜と群集まで。「飲食」まで兼ね備えた「花見」はないそうだ。すなわち、花見は日本固有の文化であるらしい。ここから先もっと詳しくは先生の著書をどうぞ。

大阪・大川沿いのソメイヨシノは、今年はやや遅く一昨日4/10(日)に満開を迎えた。今日あたりは散り初め。川面に桜の花びらがゆらゆらと流れる様がきれいだ。自粛・自粛とエライ人に指摘されずとも、東北の銘酒をちびりちびりやり、ひそやかに花見する人々の姿は、成熟した庶民の楽しみである「花見」を、よりはかなく美しく感じさせる。人生あと何回の桜、花見を楽しむことができるのか。五十も半ばを過ぎ、桜のシーズンには毎年そんなことを考えるようになった。

ところがこの辺りではソメイヨシノが過ぎても、八重桜の「造幣局の通り抜け」がある。桜のシーズンが合計なんやかんやと3週間ほどもある。散り初めの時に想う自戒も、いくらなんでも3週間は続かず、通り抜けが始まる頃にはまた、スカタンな自分に戻っている。毎年のことだが。

今年の通り抜けは大好きな「夜桜」が自粛される。通り抜けが終わると新緑の季節。ままならない被災地の復旧に季節の移ろいだけが進む。散り初めの桜にも折節の残酷さを感じ、スカタンにはなれなんだ。