周囲23キロの大きな小島

与論島。ヨロンによろん調査に行ってきた? 琉球文化と薩摩のチカラ、その波間に生き続けてきたこの島の智恵はユーモアにあふれ、おかしみがあり、悲しくもあった。

与論島の海は、観光振興の名のもと自然海岸がすっかり消えた沖縄の海とは異次元だった。周囲約23キロ(22キロと記述されている場合もある)島の周囲は全周がほぼサンゴで囲まれている。アホほど大きい茶花の新港以外ほぼ埋め立てもない。平坦な地形をサンゴが守ってくれている。海の色は正真正銘コバルトブルー。そんな島だ。

昔、沖縄が返還されていない時代、この島がニッポン最南端。そのイメージから昭和50年前後この島は大いに観光でにぎわった。観光ブームに島が沸騰していた。その時代の中心地、与論銀座の商店街、いまはひっそり。

当時の人出は半端ではなかったらしい。ディスコが何軒もあったという。しかもどの店もよく賑わい、儲かったらしい。いま、その昭和の面影はコンクリートの抜け殻となり、あっちこっちに残ってる。うらぶれている。しかし、往時の人いきれを感じ抜け殻には遺構のような魅力がある。この島は、ニッポン観光の近現代史の生き証人、ニッポン遺産だ。

しかし、生き証人が本当にいる。与論銀座のいまを輝かす「かりゆしバンド」最高やった。大阪駅前第3ビル「琉球」の伊礼さんに勝るとも劣らないパッションと音楽性。ここ与論にずっと生き、死んでゆく覚悟とハートがみなぎっていた。

与論民俗村の菊秀史さんご夫妻(奥さまメチャ美人)。これにはもっと驚いた。お母さんの菊千代さんから受け継いだ「与論の歴史・民俗・文化」を身をもって、個人経営で伝承・紹介されている。

人智を超えてしまうバカでかいモノなどなく、いま輝いている生き証人「足るを知る人たちが光っていた」。そして、輝ける海。それ以上なにもいらないような気がした。未来の観光が見えた!