観光を学ぶテキスト

高知の案内をしてくれたO女史からメールが届いた。「ブログにコメントを入れたいが、“入ってく”やり方、分からないので教えてよ」と。そんなこと僕にもわからん。このブログの「仕立て」は、み〜んなM君にしてもらった。恥ずかしながらボクもよ〜わからん。おまけに、リテラシーを高める気力も意識も富士山頂の酸素よりはるかに希薄。新田次郎ファンだったので富士山頂や強力伝は読んだが、登ったことないので希薄も怪しいが・・

で、このブログを始めた昨年早々、2度もコメントを入れてくださった「青鳶さん」という方にも、申し訳ないがレスポンスしていない。というより、レスポンスのやりからが分からないのでお礼できない。ただ書き綴っているだけだ。情けないといえば情けない。ここで一言お詫び、「申し訳ありません」。

ならばなぜ、くどくどひつこく書き綴っているのか?

近ごろの日常はフィギアスケートのトリプルアクセルのようにくるくる目が廻るように早い。その速さを追っかけるように、観光を学ぶ上でのテキストは、どれを見ても、あっちこっちで起こっている成功事例を書き連ねてある。その網羅ぶりには頭が下がる。よくここまで、と思えるほど懇切丁寧。まるで美味しい料理のグラビアを見ているようでもある。しかし、何か物足りない。ショーケースの蝋細工を眺めているようで、何か切ない。

え〜い、それなら書いてまえ。と、授業に使う前提で書きためだした。「そうだ、観光概論のテキストに使ってやろう!」。お金かからんし。

この、ライブ判テキストには「美味しい料理」はない。どちらかといえば、「不揃いの林檎たち(古いな〜)」のようなドタバタした話。スカタンな話。恥の上塗り。不細工な話。そんなことばっかりだ。短大生といえば、ほぼすべてが20歳前。美味しい料理より「不揃いの林檎たち」の時代だ。旅に出るとはそんなことの連続だったと、今にして思う。なんと勉強になったことか。カッコ悪かったけど・・

「観光を学ぶ」といことは、成功事例を糊塗することではない(シャレをかましているわけではない・・)。旅に出て、ドタバタを繰り返し、自分自身を見つめ直し、「情けない自分でも社会とつなることができる」と、ハレ(旅)とケ(日常)を行ったり来たりしながら、自覚的に「自分」をつかみ取る。その上で、「個性の自己表現」が許されるということに、ふと気づき、歓喜する。その後、表現力のセンスを磨く過程で苦悶する。そのようなことが「観光を学ぶ」本質のように思う。

あらら、O女史のこと忘れてた・・「まっ、ええか」。彼女にもこのブログで観光を学んでもらおっと。