瀧川鯉昇さんと権威について語る

落語についての知識はない。ただ、家の真向かいに繁昌亭ができて四年、何やら奇妙なご縁が出来た方もいる。江戸落語の実力派と評判の高い瀧川鯉昇(たきがわ・りしょう)さんもその一人。

鯉昇さん、半年に一度程度は大阪・繁昌亭の高座にもやってくる。本日は丁度その日、お昼ご飯をご一緒させていただいた。その会話の向きが問わず語りに「権威と権力」に向かった。この内容、これまた丁度本日の朝日新聞「ゆらぐ権威」という連載で、山崎正和さんが「権威をたたき潰す流行に歯止めを」と、論じられていたので盛り上がった。

ちかごろは垂れ流しのような報道が目に余る。報道というより、どう見ても内輪話に近い。権威の象徴であるべき法務大臣までもが「覚えておくことは2点だけ、法務大臣とは楽な仕事だ」と失言、降板するような状況だから、権威が失墜し「権力の執行権」だけで成り立っている時代。報道すべき情報のない時代。といえなくもない。ましてや若者は、既得権益に居座った年長者の「権力」に「権威」をかざされて居場所がない。

就活という魔法の杖を持った大人の側は、大学を職安のごとく状況にせしめ、社会そのものを大地溝帯のごとくバリアーで埋め尽くしている。で、大人の側の言いようは「日常会話のルールも知らないから駄目なんだ」「資格を取れ」の理屈にならない理屈の一点張りで、理屈になっていない。権威の本質を健忘してしまったのは大人の側のように見える。

「権威を妄信せよというのではない。ただ、そろそろ権威をたたきつぶす流行に歯止めをかけなければ、文明は無政府状態に陥ってしまう。」とする、山崎正和氏の結びの論には大いに賛成する。が、“どちらかといえば”権威を持った側の失態の連続や、牡蠣のような硬さの守旧統治に庶民は息も絶え絶えなのである。

と、ここで、鯉昇さんの高座の出番が近くなった。「この続きは東京、日暮里か王子の生ホッピーを飲ませてくれる店で」と、鯉昇さんは言い残し、行った。鯉昇さんのうしろ姿は大阪の空気にもなじみカメレオン(ご尊顔中の眼光も、なんとはなしにカメレオンのようでもある・・)のよう、その存在に主張はない。しかし、師の高座はこれと真逆。シンプルを極めたな芸が権威を感じさせる。権威とはそのようなモノなのかもしれない。