「しゃ〜けど」と、歌人に

友人に「Wさん」という歌人がいる。「塚本邦雄が認める弟子だった」と、後に別の歌人から聞かされWさんの歌集を読んだ。その風情は、鮮烈であからさまな描写の反面、独特の生活観や美意識、優しさに包まれている。ただし、一見するだけでは変態のように見えなくもない歌風で、強烈なボールをこちらに向かって投げつけられ「おまえに無垢な心は残っているか!?」と、変態に試されているような気がする不思議な歌風だ。

そのWさんとは、よく酒を酌み交わす。話題は、ありのままのニッポンや映画、料理にワイン、泥酔の一歩手前まで来れば欠かすことなくワイ談。Wさんは、東京の大学を出た直後は日活に勤め、あの「ロマンポルノ」を担当していた。ゆえに「往時の女優」の無垢さ加減について「垂涎の逸話」も聞かせてくれ、ショーゲキ的事実に感涙することがある。

ところがWさん、その独創的な生き方に反して「この世代特有の流行病」のように現役引退を宣言するようになった。年末に60歳となるからだ。一日一組だけ迎え入れる「こだわりレストラン」と、歌作だけにふけるという。ただそれだけの「そぎ落とした生活」を準備中とのことだ。ちかごろでは飲んで酔っ払えば、そんな宣言が続く。

しゃ〜けど(大阪の一部地域の方言「それも、そうだが」のような意味)・・塚本邦雄師もWさんの歌も、「現役」であったればこその炸裂。そんな酔狂な生活だけでは爆裂するような歌作は不可能だ。創作とは変態に宿る!!・・と、こちらも酔っ払って言ってやる。ボクの周りを見渡せば60歳を過ぎたあたりの知人が数多い。そう言われてみれば「60歳の曲がり角」を意識した、人生の終着駅みたいな発言をこれまでも数々聞かされてきた。まるで終着駅を下りると「楽園が待っている」かのように・・

現役の禁断から逃れ、楽園を覗いたら、いったいどのような人生が降臨するのか? 数年もすればボクもその年代に到達するわけだが、まったく想像だにできない。将来の不安だけが充満していた二十歳の誕生日だけはハッキリ記憶しているが30、40、50の誕生日など忘れてしまったし。

60歳に咲く花は、伸びやかに咲く一群の花のひとつか?  やっぱり踏み蹴散らされて咲く一輪か?  どちらにも魅力はあるが、Wさんの「垂涎の逸話」の前では、いつも酩酊の花だけが開花する。仏教的には死ぬまで輪廻などないはずだ。欧米的な「リタイア思想」は、どちらかというと好きではない。60歳になったからといって、自分自身が突然変わるはずもなかろうに。

爆裂する歌人、Wさんを見ているといつもそのように思う。