梅棹忠夫さんの凄さ・・2010夏のふりかえり

梅棹忠夫さんが亡くなられた。いま連載過程の朝日新聞・夕刊「知の探検家 梅棹忠夫の奇跡」では、学問的な評価と共に、その滋味深い人となりが紹介さている。
わたし自身が梅棹さんに直接、薫陶を受けたわけではない。しかし梅棹さんに薫陶を受けていた先生方の薫陶は受けている・・いささかややこしい・・
もう15年近く前のこと、ある全国紙の企画の一環で、「梅棹先生との対談を」ということになり、その企画のコーディネートの一部を受け持っていた当時のわたしも、その対談に同席することになった。梅棹さんは秘書の三原さんのエスコートを受けつつ、千里クラブの広い会議室の真ん中に据えられたテーブルに座る前のひととき、その超高層階から見える景色をわたしたちに、ああでもない、こうでもないと解説してくださった。
千里ニュータウン大阪万博民族学博物館、そのすべての位置関係と完成経緯の物語が、まるで生き物のように梅棹さんの口から飛び出した。楽しかった。梅棹さんは、当時すでに視覚障がいであったのに、だ。約一時間半ほどで対談は終了し、その後昼食となった。対談相手の佛教大学教授、高田公理氏(当時、武庫川女子大教授)と梅棹さんは、対談時の緊張感とは一転し師弟関係の親しみとユーモアの中で食事を楽しんだ。初夏だった。
「ちょっとだけ冷えた赤ワインを」と、梅棹さん
「赤いの冷やして、美味しおすか?」と、高田さん
食事が終われば、
「デザートに、冷た〜いアイスクリームが食べたい」梅棹さん
「そんなん、腹冷えまっせ」と、否定的な高田さん
「知の探検家」は、どこまでもユーモアにあふれていた。
食事も一段落したとき、一つ疑問があったので、わたしは唐突に聞いてみたことがある。梅棹さんの大阪市立大学時代の日常生活についてだった。あまりに唐突過ぎて、さすがにびっくりされたご様子だったが、その時代のことも端的に語ってくださった(前出の連載9/4付け朝日新聞・夕刊では1961年当時、市大・助教授時代の写真が紹介されてる)。
全部でたった3時間ほど、最初で最後の出会いだったが強烈な印象が残った。探検し、その目で確かめたこと、その一点からの展開力が梅棹さんの持ち味であったとするならば、視覚障がいを微塵も感じさせない、この力強さとユーモアは、いったいどこから沸騰してくるのだろうか、と。貧困、差別、衰え、力なし・・いずれに出会ったとしても自己そのものを見つめる力があるからこそ、展開力は生まれる。そんな教科書のようなことは、分かっていた。しかしいま、この目の前にいる視覚障がいという、とてつもないハンディーを身に抱えた学者のように、ここまで強く生きることはできるのだろうか、そんなことを考えた。
栄光が大きく高ければ高いほど、肉体の衰えによる悲哀の感じ方は絶望に近づく、当時はそうとしか考えられなかったからだ。梅棹さんには、もう一度そんなことを聞いてみたかった。しかし今年のこの暑さ、そのような愚問をしたら「きりきりに冷えたワインしとこ」と、笑ってグラスを差し向けられたに違いない。きっとそうだったと思う。ご冥福をお祈りいたします。